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東京高等裁判所 昭和56年(ラ)568号 決定

抗告人 小林和郎

相手方 小林トヨ 外七名

主文

本件抗告を棄却する。

抗告費用は抗告人の負担とする。

理由

本件抗告の趣旨は、「原審判を取消し、本件を東京家庭裁判所へ差戻す。」との裁判を求めるというのであり、抗告の理由は、別紙抗告理由書記載のとおりである。

よつて、記録に基づいて検討するに、当裁判所も、本件遺産の分割は、原審判主文のとおり定めるのが相当であると判断するものであつて、その理由は、原審判理由と同一(ただし、原審判一二枚目裏一行目「経営による」を削除する。)であるから、これを引用する。

なお、抗告理由について判断する。

抗告理由第一点は、抗告人は、被相続人小林音蔵に対し、昭和二七年五月ころ以降もその死亡に至るまで、生活の援助を続けていたものである旨主張するが、右主張に沿う原審証人小林ハツヨの証言及び原審における抗告人本人の審問の結果は、原審における相手方本人小林トヨの審問の結果に対比して、採用するに足りず、他に右主張事実を認めるべき証拠はない。

同第二点は、被相続人が相手方小林トヨに対し特別受益の持戻の免除をした事実を認定したことが違法である旨主張するところ、右に引用した原審判認定の事実によれば、被相続人が、妻である相手方小林トヨに対し、本件土地のうち原審判別紙図面記載(B)部分について建物所有の目的による使用貸借権を設定し、かつ、同相手方が右土地部分に建物を建築するにつき、建築費約四六万円のうち約二〇万円を贈与したことは、民法第九〇三条第一項の特別受益に該当するが、被相続人は、その後死亡までの約九年間、右相手方の建築した地上建物に同人と夫婦として同居生活を送り、主として同人が右建物で営む飲屋の収入によつて生活を維持していたものであつて、このように、右相手方が贈与を受けた財産を基礎として、被相続人自身の生活に寄与してきた事情からすれば、被相続人としては、遅くとも相続開始の前頃には、右生前贈与をもつて、相続分の前渡しとして相続財産に算入すべきものとする意思は有していなかつたものとみることができ、したがつて、特段の反証のないかぎり、被相続人は、相手方小林トヨに対し黙示に右特別受益の持戻の免除の意思表示をしたものと推認するのが相当であつて、これを覆えすに足る証拠はない。したがつて、右主張は採用することができない。

同第三点は、抗告人が相続財産の維持増加についてした貢献は、相続開始後のものであつても、寄与分として遺産分割にあたり評価すべきである旨主張する。しかし、原審判の説示するとおり、いわゆる寄与分とは、共同相続人の一部の者が被相続人の財産の維持又は増加に対し通常の程度を超えて寄与した場合に、遺産分割に際し、相続開始時における具体的相続分を算定するにあたり、共同相続人間の衡平を図る見地から、特別受益と同様に、その寄与を評価すべきものとされるものにほかならないから、相続開始時を基準としてこれを考慮すべきであつて、相続開始後に相続財産を維持又は増加させたことに対する貢献は寄与分として評価すべきものではないと解すべきであり、なお、相続財産の管理のために現実に要した費用は、遺産分割に際してあわせて清算されるとしても、管理により増加させた相続財産の価値については、相続財産に関する費用に準じて、分割時にこれを清算すべきであるとする法的根拠を見出すこともできない。したがつて、抗告人の主張は採用することができない。

同第四点は、相続財産に関する費用は貨幣価値の変動を考慮して清算すべきである旨主張する。しかし、相続財産に関して支出した費用の償還請求権は、その支出の時において金銭債権として発生するものであつて、それを遺産分割時にあわせて清算すべきときでも、清算時の貨幣価値によつて評価すべきものとする根拠はない。論旨引用の最高裁昭和五一年三月一八日判決(民集三〇巻二号一一一頁)は、民法第九〇三条によつて特別受益を遺留分算定の基礎となる財産の額に加える場合には、受益の額を相続開始時の貨幣価値に換算した価額をもつて評価すべきであるとしたものであつて、抗告人主張の場合とは事案を全く異にするものである。したがつて、右主張は採用することができない。

その他、記録を精査しても、原審判に違法の事由を見出すことはできない。

したがつて、原審判は相当であつて、本件抗告は、理由がないから、これを棄却することとし、抗告費用の負担につき民事訴訟法第九五条、第八九条を適用して、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官 井口牧郎 裁判官 野田宏 藤浦照生)

抗告理由書

第一点原審判は被相続人小林音蔵の扶養に関する事実を誤認している。

一 原審判は、被相続人小林音蔵(以下被相続人という)の生活費の調達について、抗告人が昭和二四年五月頃被相続人に対し一ヶ月約四、〇〇〇円程度の生活費の援助をし、昭和二七年四月頃までその援助を続けその間金額を若干増額したが、同年五月頃からはその援助を受けることがなくなり、同年一〇月頃から死亡に至るまで主として相手方小林トヨ(以下相手方トヨという)の営む飲屋からの収入によつて生活を維持したと認定している。

二 併し、右は事実を誤認したものである。抗告人は、原審判も認める如く、昭和一七年一〇月頃軍に入営するに当りそれまで貯めて持つていた金八三〇円を残された家族の生活費として渡した事実があり、昭和二〇年復員後は、すでに老齢に達し収入も殆んどない被相続人に代つて一家の支柱となつたのであり、被相続人の生活費は被相続人の死亡に至るまで抗告人の援助に依存したのである。

三 相手方トヨの営む飲屋というものは、全く片手間に建物の一隅に近所の人が集まるのに酒食を供する程度であつて、到底被相続人と二人の生活を支えるに足るものではない。相手方トヨの原審における供述は、昭和二七年五月頃から被相続人が抗告人の援助を受けなくなつたと述べているが、それまでは援助を受けていたことを認めているし、被相続人死亡後は、相手方トヨが抗告人の援助を受けたことも認めている。もし原審の言う如く昭和二七年一〇月以降被相続人死亡に至るまで相手方トヨの営む飲屋の収入によつて同人と被相続人の生活費が賄れていたとすれば、このように被相続人死亡後に相手方トヨに対する生活費の仕送りが行われたことは説明し難い。

この点において、原審における相手方トヨの、被相続人が昭和二七年五月以降死亡に至るまで抗告人の援助を受けなかつたという供述は信用することのできないものである。原審判は、被相続人の終戦後の生活環境、抗告人の地位と役割に関する事実を誤認し、前記の如き誤つた事実を認定したものである。

第二点原審判は、相手方トヨの特別受益の持戻しについて事実を誤認し、且つ、法律の解釈適用を誤つている。

一 原審判は、相手方トヨが昭和二七年一〇月頃、被相続人から約金二万円の贈与を受け、かつ、及び遺産である土地のうち原審判添付図面(B)部分について無償で建物所有の目的による使用貸借権の設定を受けこれらが民法第九〇三条第一項にいう生計の資本としての贈与に該当することを認定しつつ、他方、被相続人と相手方トヨがその頃建築された建物に同居し、相手方トヨがその建物の一部において単独で飲屋の営業をし、主としてその収入により同人らの婚姻生活を支え、建物のその余の部分を夫婦の婚姻住居として使用し、被相続人の死亡に至るまでの約九年間円満に同居生活を送つたという事情を考えると、おそくとも被相続人の死亡に至るまでに、被相続人は相手方トヨに対し、その寄与に報ゆるため前記贈与について黙示による持戻免除の意思表示をしたものと認めることができると判示している。

二 併し、すでに述べた如く、右の事実認定中相手方トヨの飲屋の収入により同人と被相続人の生活費が賄れたという点は事実を誤認したものである。

三 更に、仮りに、原審判の認定した如き事実があつたとしてもこれを以て黙示による持戻免除の意思表示をなしたものと認めることは、以下に述べる如く法律の解釈適用の誤りである。

特別受益の持戻し免除を定める民法第九〇三条第三項の意思表示については、特別の方式が要求されておらず黙示による意思表示もあり得る。併し、その場合は、被相続人がそのような意思を有していたと積極的に推定し得る事実がなければならないと解すべきである。学説は、共同相続人の一人に贈与がなされているにもかかわらずこの贈与に言及することなく遺言で相続分の指定をしている場合には、被相続人は持戻免除の意をもつてなした場合が多いであろうとしているが、このような場合は、被相続人は相続に関する意思表示を行い、その意思表示が持戻免除を推定することによつて合理的に理解され得る場合であり、黙示の持戻免除の意思表示を認めるに足るであろう。併し、原審判が挙示した事実は、被相続人と相手方トヨが夫婦として支援し合つて円満な同居生活を送つたという事実に過ぎない、而して、夫婦が支援し合つて円満な同居生活を営むことは当然のことに属し、それ故、配偶者には相続に当たつて一定の相続分が法律上確保されているのである。それを、夫婦が支援し合つて円満な同居生活を営んだ事実に基づいて、更に、原審判の如き黙示の持戻免除の意思表示をも認めることは、特別受益の持戻によつて公平な相続を行わせようとする民法第九〇三条の趣旨を没却するものである。もし原審判の如く解するとすれば、夫婦親子間の贈与の多くが黙示の持戻免除の意思表示を伴つたものと解されることとなるであろう。この点において原審判は民法第九〇三条の解釈適用を誤つたものである。

第三点原審判は、抗告人の相続開始後における相続財産の維持増加に対する寄与について法律の解釈適用を誤つている。

一 原審判は、寄与分の根拠となる特別の寄与は、共同相続人の一人または数人か相続開始前において被相続人の財産の維持又は増加に対してなした寄与を指すものであり、相続開始後における寄与はこれにあたらないとしている。

二 併し、遺産分割に当り、共同相続人の一人または数人か相続財産の維持増加に対し特別な寄与をしたことを理由に、その相続人に法定相続分以外の特別な取得分を認めることは、本来公平の理念に基つくものであり、遺産分割における全体としての公平の見地から考慮さるべきことである。而して、相続財産の維持増加に対する寄与が長期間に亘つてなされた場合においては相続開始の前後に区切つてその寄与を評価し得ない場合もあり得るので、原審判の言う如く相続開始後の寄与はこれを考慮しないと言い切ることは正当な態度とは考えられない。本件の如く、抗告人が相続財産の維持増加について顕著な貢献をし、その結果相続財産の価値が著しく増加したことが明らかな場合においては、それが相続開始後になされたものであるとしても、その貢献を評価し、遺産分割を行わなければならない。この点において原審判は民法第九〇六条の解釈適用を誤つたものである。

三 原審判は、抗告人の努力により、遺産である土地のうち原審判添付図面(A)の部分について小田多市の賃借権が消滅し、右(A)の部分が更地となり、その財産価値が増加したことを推認することができると述べて右の相続財産の価値の増加が抗告人の貢献によることを認めつつ、他方、その貢献が相続開始後になされたためこれを寄与分として評価することができず、また、この財産価値の増加は、相続財産に関する費用に該当しないものであるが、これに準じ相続財産から控除して清算する見解が全くないわけではないが、そのような扱いをする法的根拠が存在しないのであるからこの見解に従うことができないと述べて、抗告人の貢献を全く評価することをしていない。

併し、ここで原判決が法的根拠が存在しないと言うのは法の解釈の誤りである。民法第九〇六条は、「遺産の分割は、遺産に属する物又は権利の種類及び性質、各相続人の年齢、職業、心身の状態及び生活の状況その他一切の事情を考慮してこれをする」と定めており、従来、これを根拠として遺産分割における公平が図られて来た。本件の如く、相続開始当時においては相続財産の主要部分が他人に賃貸されて価値が低く、後に抗告人の貢献によつてその賃貸借が解消されて更地となり価値が増加したことが明らかな場合においては、「遺産に属する物又は権利の種類及び性質」を考慮するならば、抗告人の貢献によつて生じた価値の増加は、実質的には、本来の相続財産には存在せず、相続開始後に新たに生じたものとして、これをもたらした抗告人に帰属せしむべきである。そして、このようにして公平な遺産分割をすることは右の民法第九〇六条に基づくことであり、法的根拠が存在するのである。

第四点原審判は相続財産に関する費用の清算に当たり貨弊価値の変動を考慮しない点においての法の解釈適用を誤つている。

一 原審判は、抗告人が支出した公租公課、訴訟費用等は民法第八八五条の相続財産に関する費用にあたりこれを相続財産から支弁すべきものとしているが、これら費用について貨弊価値の変動を考慮して物価指数を用いて評価した上清算することは、そのような扱いをする法的根拠がないとしてこれを斥けている。

二 然るに、民法第八八五条の規定は、不当利得制度と同じく公平の理念に基づくものであり、一方において相続財産に関する費用を支出して損失を招いた者がおり、他方において相続財産の分配が行われようとする場合は、まず費用を支出した者の損失を補填した上で分配を行うことが正当であるとするものである。

そうである以上、支出時と支払時の間に貨幣価値の変動があり支出した者が支出した金額と名目上等しい金銭の支弁を受けたとしても実質的な損失の補填とならないことが明らかな場合においては、貨幣価値の変動を考慮して清算を行うことは当然のことに属する。最高裁判所昭和四九年(オ)第一一三四号事件の同裁判所第一小法廷昭和五一年三月一八日付判決は、特別受益の持戻しについて、かかる貨幣価値の変動に基づく換算をすることを正当であるとし、その理由として、もしそのようにしなければ「共同相続人相互の衡平を維持することを目的とする特別受益制度の趣旨を没却することとなるばかりでなく、かつ、右のように解しても、取引における一般的な支払手段としての金銭の性質、機能を損う結果をもたらすものではないからである」と述べている(判例タイムズ三三五号二一一頁。)

三 本件において、抗告人の支出した費用中最も多額であるのは前記の遺産である土地のうち原審判添付図面(A)の部分の明渡請求訴訟の訴訟費用であるが、その支出時である昭和四八年の総理府統計局の全国消費者物価指数は昭和五〇年を一〇〇として七一・九であるのに比し昭和五五年七月の同指数は、一三八・一であつてこの間の上昇率は九二パーセントに達している。従つて、原審判の如くするときは、抗告人は実質的には約五一・三パーセントの損失の補填を受けるに止まることとなる。

四 このようなことは、本来公平の理念に基づく民法第八八五条の趣旨を没却するものであり、前記最高裁判所判決の言う如き理由により許されないものと言うべきである。この点において原審判は民法第八八五条の解釈適用を誤つたものである。

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